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インヴェンションの講座終了しました。

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カワイさんの主催によるインヴェンションの講座終了しました。 担当の山添さんにはいろいろとお世話になりまして、貴重な経験をさせていただきました。お越し下さった方に感謝いたします。 私は幼いころからピアノを弾いていましたが、今はすっかりチェンバロ一辺倒と言ってよく、そのような私がピアノの先生方に向けてお話するというのはやはり難しさがあると感じます。 周知の通り、バッハの時代に今の真っ黒のピアノはまだありませんでした。 それは鍵盤の重さや、音量、機能は全くチェンバロとは違うものです。 シフやペライヤやまたニコラーエワやその他偉大なピアニストが弾くバッハの芸術的価値というのは計り知れず、私も生で聞いたペライヤなどは天国かと思う美しいものでした。 ただし、チェンバロ奏者として個人的な視点からバロック的かどうかと考えると、それは少し違うと感じてしまいます。それでもバロック的に(かつ美しく)ピアノで表現できるよ、とお伝えするのはもしかすると嘘になってしまうかもしれませんし、かといってピアノの美しさをいかした芸術的なバッハに私の出る幕はないと思うのです。そういった意味で妥協点を見いだして、有益な情報をお伝えしたいと努力をしましたが、やはりそれは中途半端なきれいごとでしかないのではないかという気がしています。 古楽器奏者はとかく(便宜上の呼び名としての)モダン楽器と対立しがちと敬遠されることもあります。 私は決してモダン楽器で本当の音楽ができないなどと思いません。 ですが、やはり思想と道具(=楽器)というのは表現の手段として分ちがたく結びついています。ですので、もし当時の思想に近づきながら演奏するためにはやはりチェンバロのような機構を持った楽器がふさわしいと思います。 そしてチェンバロもやはり技術を習得するのは簡単ではない楽器です。 今日のような稚拙な講座でもそれをきっかけとして、いらしてくださった方がご自身の信じるものについてさらに考えるきっかけになれば、それ以上にうれしいことはありませんが、やはりいずれにしても一番大切なのは、自分の疑問に自分自身で問うこと、答えることだと、私も実感することのできた機会でもありました。

チェンバロの調律と調整:マルティンのお話

チェンバロの調整というのは本当に根気のいる作業です。 タッチがびしっと揃って音のバランスも思い通りということはなかなか難しいことですが、ヨーロッパ人は結構いい加減にもかかわらず、私が勉強した3校またはコンサートで弾かせていただいた楽器はいつもかなり良いコンディションでした。やはり気候などもチェンバロに合っていて精密な調整をいつもいつもしなくても良かったのかもしれません。 日本は湿度や温度もジェットコースター並に変化しますので、そういった意味ではチェンバロには大変ですね。私のチェンバロもそのためか日本に入れてからかなり音質が変わりました。 そして調整以上にマジックと感じるのが調律です。 学校のチェンバロを担当していたバーゼルの調律師のマルティンを、私は未だに本当に魔法使いだと思っています。(わー今日は硬いなー。)とジャックの爪のひっかかりがとても強く感じるときも、マルティンが調律をしただけでタッチまでマイルドになってしまうという経験を何度もしました。物理的にかかる力は変わらないはずですから本当に不思議です。 「マルティンが調律してくれれば絶対にうまくいく」と思える調律師さんでした。 それは言葉では説明できず、無理に説明しようとするとただのヘンな人と思われかねないことですが、実際に経験したことなんです。だれかわかってくれないかな。

緑レンズ豆のサラダ

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食事のお話。 留学した当初は食生活も変わって不自由ではありましたが、最初に住んだストラスブールはとにかくご飯が美味しかったので、日本食はあまり手にはいらないものの様々な美味しいものを食べてとても楽しかったです。 中でも普段いつも食べていたものに緑レンズ豆があります。 これをサラダにしたり豚肉とトマトの煮込みに入れたりと週3−4日は食べていたかもしれません。 岡山駅地下にたまにありましたが、今そのお店が改装中で無くなってしまい残念。 今でもよく食べたくなります。 緑レンズ豆のサラダ:レシピ 1、 緑レンズ豆を20分くらいやわらかくなるまでゆでる。(日本で売っているものは硬いものが多いので、1ー2時間水につけるといいかもしれません) 2、 タマネギのみじん切りやジャガイモをゆでたもの、トマト、エビのゆでたもの、または生ハムなど好きなものを準備。 3、 1 と 2 をドレッシングで和える。 (塩少々、粒マスタード大さじ1/2から1程度、お好みで蜂蜜、ビネガーとオイル/割合は1:3) ストラスブールの料理教室、お昼休みにさっと作って食べられるコースでした。

バロック時代の作曲家入門編2 クープラン

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今日は フ ランソワ・クープラン です。 エレガント!                                               1668年、フランソワ・クープランもバッハ同様音楽家の一族に生まれました。 フランソワの伯父さんのルイ・クープランも有名な作曲家であり、チェンバロ奏者、オルガン奏者でルイ14世の宮廷に仕えていました。 とりわけチェンバロのための作品を多く残しています。 奇人変人の多いとされる、フランスのバロック時代の中でフランソワ・クープランはきわめて謙虚で勉強熱心、人望を集める人柄だったと言われています。 当時のフランスでは対立と憧れの対象であったイタリアの音楽と、フランスの音楽のそれぞれのよいところを認めてクープランは音楽に取り入れました。このことからも公平でバランス感覚に長けていた人であったことが伺えます。 ちなみにフランスのこの時代は、暴力沙汰を起こしたり、高慢で気性が荒い一癖ある音楽家が数多くいたようです。知り合いにいれば困ってしまうけれど、多様な人々が共存した時代だからこそ、素晴らしい音楽が生まれたのだと個人的には興味深く感じます。 さてそんな誉れ高いクープランですが、私はクープランが温かい人格者だったかどうかひそかに疑いを持っているのです。 クープランは自身が作曲したほとんどのチェンバロのための作品にタイトルをつけているのですが、かなり辛辣なものが多く、それを見ていると結構な皮肉屋だったのではないかと思わせられます。暗に社交界の人物等を表したものが多く、それは「音楽による肖像画」などと言われています。 クープランはクラヴサン曲集第3巻の序文で「自分の書いたとおりに装飾を弾いてほしい。省いたり付け加えたりして曲を台無しにしないで!(意訳)」と装飾音の奏法について釘をさしているのですが、自由に即興的な装飾をつけるのが当たり前だった時代においてこの発言、美的こだわりの強い人だったと言えるでしょう。 「クラヴサン奏法」という教則本も書いています。 趣味の良さと現実的思考そしてややシニカルな視点、まさにフランス人的な特徴を備えた作曲家ですね!

バロック時代の作曲家入門1 ヨハン=ゼバスティアン・バッハ

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今日から時々バロック時代の作曲家や時代のあれこれについて書いてみようと思います♪ まず、なんといっても バッハ ですね。 バッハは当時の多くの音楽家と同じように音楽を生業とする家系に生まれました。なので音楽家にもたくさんのバッハ家の人々がいるわけですが、ご存知ヨハン=ゼバスティアン・バッハが一族の中の頂点をなすと言ってもいいかと思います。生まれたのは1685年。ドメニコ・スカルラッティやヘンデルと同い年です。 いまでこそ「神」のごとく崇められているバッハですが、当時決して大スターだったわけではないのです。どちらかというと質実剛健、地味な存在でした。弟子や周りの愛好家からは高い尊敬を集めていましたが、むしろ息子たちの方が世俗的な成功を収めたと言われています。 一般的なイメージではバッハと言えば教会音楽と思われているようです。確かにバッハは教会で演奏するための曲、カンタータやオルガン作品をたくさん作曲しました。 でもバッハはもうひとつの側面として、宮廷やカフェで演奏する親しみ深くそして華やかな作品を多く書いています。 チェンバロではどちらかというとそのような宮廷で演奏された華やかな作品を演奏しますので、私にとってバッハは決して難しいというものではなく、もしろ気負いなく演奏できるものが多い気がします。 バッハは非常に人間的な人でした。生徒とけんかをしたり、出来の悪い弟子を罵倒したり、教会に禁止されていたのに女性を引き入れたりと、決して「聖人」としてではないエピソードも沢山残っています。そのようなエピソードから感じられるような人間の生き生きとした感情が曲に反映されているように感じます。 同時にたゆまぬ努力を怠らないバッハ、推敲に推敲を重ねて作品を仕上げるバッハの「地道さ」を見ると、私たちがイメージするようなひらめきの「天才」というよりは、積み重ねによって技術を磨き、個性あふれる作品にまで昇華させることができた人だったことがわかります。 最後に、コンサートでお話して一番「ほー」と関心を集めるエピソードとしてバッハは子だくさんだったということがあります。二人の奥さんの間に20人の子供を作りました。 そのことから、また寄宿舎に住む沢山の生徒がいたことからもバッハはきっと騒音の中、日々の仕事に忙殺されながら数々の名曲を生み出したのだと想像で